2007年08月のアーカイブ
――ゆあゆあ……ゆあ……ゆあゆあゆあ……じっじっじー……ぽっぽっぽ……
飛んで燈にいる夏の虫。何処からともなく此方に飛んできてゆるりゆるりと眼前の蝋燭の燈の周りを渦を巻くように何回か巡り小さな羽虫が蝋燭の炎に焼かれた……。
――ゆあ……ぽっ……ゆあゆあゆあ……
複眼を持つ昆虫は光線に対して直角に進むやうに『仕組まれて』ゐるので蝋燭の炎に飛び込み焼け死んだあの小さな羽虫は『直進』してゐたにも拘はず『渦』を描いてゐた。
――あの小さな羽虫もまた蝋燭の燈に魅せられてしまったのか……
――ゆあゆあゆあ……ゆあゆあゆあゆあ……ぽっ……
不意に眼前の蝋燭の炎が揺れた。
――揺らめく……揺らめく……世界が……揺らめく……
眼前の蝋燭の炎を中心とした『渦時空間』に死者たちの魂もまた魅せられてその蝋燭の炎の周りを巡ってゐるのか……。
――ゆあゆあ……ぽっぽっぽっぽっ……ゆあゆあゆあゆあ……
陰翳が絶えず移ろふこの『渦時空間』こそ、死者たちの祝祭の場……。
――眼前の蝋燭の炎は吾の命の『炎』なのか……死者共が吾の『炎』を酒の肴に喰らってゐるではないか……
この蝋燭の炎の『ゆあゆあゆあ』といふ揺らめく輝きは死者共の哄笑で満ちてゐる憩ひの場。そして、また、吾も清浄なる死者共の祝祭に招かれし。
――わっはっは。
死者と戯れしこの無上の時間。そして……終焉の時。
――ふうっ。
吾は己の命の『炎』を自ら吹き消したのだ。
――何なのだらう、この静謐なる心地よさは……
闇の中、吾の網膜に残る蝋燭の炎の残像を吾は己の命を慈しむやうにずうっとずうっと眺め続けてゐたのであった。
――吾、未だ、苟も生かされてしまってゐるのか。祝祭だ、祝祭だ、吾の生に乾杯 ! !
雪は終始愉快なやうであった。即ち、私が愉快であったのである。他者は自己の鏡である。雪が愉快だととふことは取りも直さず私が愉快だったことが雪に映ってゐただけのことに違ひない……
*******つまり、渦の紋様が、つまり、古の昔から存在してゐて、つまり、しかもそれが、つまり、人類共通の、つまり、紋様だったことは、つまり、知ってゐるね。
――ええ。アイヌの方々の衣装を見ただけでも自明のことよ。日本は、勿論、唐草紋様は特に世界共通の渦紋様だわ。……それが物理数学的に未だ数式で記述できないって事が不思議でならないわ。
*******つまり、そこなんだ、つまり、問題は。つまり、僕の、つまり、直感だけれども、つまり、渦を、つまり、数式とかで記述するには、つまり、∞の次元が、つまり、自在に、数式で、つまり、操れないと、つまり、記述できないと、つまり、思へて仕方がない……。
――∞の次元 ? ねえ、それは何の事 ?
*******つまり、此の世は、つまり、アインシュタインのやうに、つまり、四次元であるといふのが、つまり、一般的だが、つまり、君は、つまり、特異点を知ってゐるね。つまり、人類が、つまり、未だ渦を、つまり、物理数学的な数式で、つまり、記述できないことが、つまり、この世界を、つまり、量子論と相対論とを、つまり、統一できない、つまり、根本原因だと、つまり、その歪が、つまり、特異点として、つまり、現れて、つまり、人類は特異点の問題を、つまり、姑息な手段で、つまり、成るべく触れずに、つまり、取り繕って、つまり、何事か、つまり、世界が物理数学で、つまり、記述できると、つまり、錯覚してゐたい、つまり、穴凹だらけの地面を見て、つまり、《この土地はまっ平らな土地だねえ》と、つまり、錯覚してゐるに、つまり、過ぎないのさ。
――えっ ? もっと解りやすくお願い。
*******つまり、僕の直感だけれども、つまり、渦は、つまり、四次元以上、つまり、∞次元の、つまり、四次元での、つまり、仮の姿に、つまり、過ぎない。そして、つまり、渦は、つまり、此の世の結び目、つまり、四次元時空間を、つまり、宇宙として繫げてゐる、つまり、結節に違ひないのだ。
――つまり、銀河の事ね。パスカルじゃないけれど、二つの無限の中間点が……渦といふ事ね。そして、人間もまた……渦といふことね。
*******さう。
――うふ。
*******つまり、渦が、つまり、物理数学的に記述できるといふことは、つまり、《無限》の仮面が、つまり、剥がれる、つまり、時さ。そして、つまり、人類は、つまり、此処に至って漸く本当の《無限》に、つまり、出遭ふのさ……
――本当の《無限》 ?
*******つまり、人類が、つまり、無限大を、つまり、∞といふ《象徴》で、つまり、封印したことが、つまり、間違ひの元凶だったのさ。しかし、∞といふ、つまり、象徴記号が、つまり、なかったならば、つまり、科学の発展は、つまり、もっともっとゆっくり進んだに違ひない……つまり、ねえ、君、人類は、つまり、得体の知れぬものに、つまり、《仮面》なり、《象徴記号》なり、《名前》なり、つまり、付けられずに、つまり、堪へられる、つまり、生き物だらうか ?
――さうね……《心》がその典型ね。きっと無理ね。
――……
――ねえ、うふ、《得体の知れぬ》あなたは、形而上で呼吸をしてゐる《不思議》な生き物ね……。ドストエフスキイ曰く、あなたは《紙で出来た人間》の眷属なの、えへ。
*******さうかもね、へへ。つまり、《魂の渇望型》の、つまり、生き物さ。さて、……その、つまり、陰陽魚太極図だけれども、つまり、僕の勝手な、つまり、解釈だけれども、つまり、東洋、つまり、特に日本は、つまり、陰陽===>太極で論証する、つまり、弁証法に比べたら、つまり、曖昧模糊とした論証だけれども、つまり、しかし、陰陽===>太極で思考する方が、つまり、深遠だと思ふ。
――さうね。さうかもしれないわ。
*******君は、つまり、今、つまり、道元と親鸞に、つまり、心酔してゐるね ?
――さう……。キェルケゴールの「あれか、これか」だったかしら、エイブラハムとその子イサクについての基督者の姿勢が書かれてゐた筈だけれども……私……《論理》を超えた《言葉》を……今……渇望してゐるの。それが道元と親鸞なのよ。《神》無き仏教に惹かれるの。それに、私、神が傍若無人を人間に働く「ヨブ記」が大嫌い ! !
*******でも、つまり、ブレイクもキェルケゴールも、つまり、「ヨブ記」に耽溺してゐた筈だが……
――さうね、基督者にとっては「ヨブ記」はある意味、信仰の《踏み絵》ね。確か、ドストエフスキイもさうだった筈だわ。
*******つまり、砂漠の地で生まれた、つまり、ユダヤ教、基督教、回教、何れも、つまり、《自然》といふ名の《神》は、つまり、皆、つまり、悪意に満ちてゐなければならなかったのさ。つまり、彼らは、つまり、それ程過酷な地で生きなければならなかったのさ。
――うふ。それで世界は《秩序立って》ゐたのね。だから、私には虚しい《論理》と《科学》が発展したのね。
*******さう、つまり、《理不尽》にね……。
――さうなの、西洋の《論理》は《理不尽》なのよ。
(以降に続く)
彼の口癖はかうであった。
――超越数の一つとしても知られてゐる円周率πの値が確定された時、『宇宙』は無限を獲得する。つまり、それは、へっ、『宇宙の死』さ。
更に彼は斯く語りき。
――人類は円周率をπとして『象徴記号』に封印したことで『生の世界』と『死の世界』を無理矢理にでも跨ぎ果(おお)せなければならない奇妙奇天烈な生き物へと変貌させられたのだ。
吾、其れを彼に何故だと問ふ。
――なにゆゑに貴君は斯くの如く断言せしむるや。
彼、斯くの如く答ふる。
――それでは貴君に問ふ。此の世に直線は存するや。
吾、斯くの如く答ふる。
――存在するに能はず。然れども数学世界ではπは存在し得る。
彼、更に斯くの如く問ふ。
――さすれば貴君の言ふ数学世界は『死の世界』の総称か ?
吾、彼に斯くの如く問ふ。
――なにゆゑ貴君は数学を『死の世界』と定義するや。
彼、にやりと僅かに嘲笑し、斯くの如く答ふる。
――ふっ、笑止千万。貴君、先に此の世に直線は存在するに能はずと答ふる。然れども数学ではπは存すると語りき。この矛盾、如何せん。
――うむ。如何ともせん。さすれば貴君はなにゆゑ数学を『死の世界』と断言するや。
――古人(いにしへび)とは直感的に円周率に『生』と『死』を跨ぐ《橋》の形をしたπといふギリシア文字を当てた。勿論、数学は『生』の学問ではあるが、しかし、此の世は『生』のみに非ず。『生』と『死』は切っても切れぬ縁(えにし)で結ばれし。『生』有れば必ず『死』有り、『死』有れば必ず『生』有り。はっ、人間は数学的に無限といふ概念を抱へてしまった刹那、数学は『死』をも掌中にせねばならぬ『宿命』を負ってしまったのだ。
――さすれば……
――さすれば、『無限遠』を中心とした円周が……即ち、直線だ。その刹那、『宇宙』は死滅し、死滅した『宇宙』は『∞』を獲得す。そして、πの値も確定す。そして、何も存せぬ『死』有るのみ……
――貴君に問ふ。なにゆゑ数学に『死』が有るや。
――ふっ、簡単だ。『生』を突き詰めれば、これは人類が背負った『宿命』だが、とことん突き詰めねば気が済まぬ人類が『生』を突き詰めれば『死』に至るのは必然だ。そして……、『生』と『死』が対を成さぬ『もの』は全て之まやかしだ。……はっ、つまり、此の世に存在する全てのものは誕生した刹那、『死』に片足を突っ込んでゐるのさ。一休 宗純(いっきう そうじゅん、応永元年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日))斯く語りき。
『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし』(狂雲集)
その古本屋は雪の馴染みの古本屋だった。少し強めに握られてゐた私の右手首から不意に雪は手を放し、雪にはお目当ての本の在り処が解ってゐたのだらう、私を古本屋の入り口に残したまま一目散に其方に向かって歩を進めたのであった。
その古本屋は東洋の思想、哲学、宗教、神話等々の専門の古本屋だった。
雪に取り残された私はその古本屋内の仏典の本棚に向かってゆるりゆるりと歩を進めたのであった。
私は唐三藏法師玄奘譯 (たうさんざうほふしげんじやううやく) の般若波羅蜜多心經(はんにやはらみったしんぎやう)がその時どうした訳か無性に読みたくなったのであった。
「觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛故。
說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經」
訓み下し
「觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまへり。
舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなはちこれ空、空はこれすなはち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。
舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙(けいげ)なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰はく、
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶(ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼじそはか)
般若心經」
……くわんじざいぼさつ ぎやうじんはんにやはらみつたじ せうけんごうんかいくう どいちさいくやく……と、真言を頭蓋内で読誦(どくじゅ)しやうとしたが、「觀自在菩薩」の文字を見ると最早私の視線は「觀自在菩薩」から全く放れず「觀自在菩薩」の文字をなにゆゑかじっと凝視したままなのであった。
――觀自在菩薩……何て好い姿をした文字だ……くわんじざいぼさつ……音の響きも好い……何て美しい言葉だ……
不図気付くと私の目に張り付いてゐた業火が私の視界の隅に身を潜めてゐるではないか。目玉をぎょろりと出来得る限り回転させるとやっと視界の境に業火が見えるではないか。
――これも……《觀自在菩薩》……といふ文字の……御蔭か……
私はゆっくりと目を閉ぢ、瞼が完全に閉ぢられた瞬間に姿を現はす勾玉模様の光雲と業火を見つつ胸奥で何度も何度も……《觀自在菩薩》……と唱へたのであった。
暫くすると雪が私を見つけて私の右肩をぽんと叩くのであった。
――これ、どう ?
雪が私に見せたのは陰陽五行説の陰陽魚太極図であった。
――あなたの目には、今、勾玉が棲み付いてゐる筈よ。何故だかあなたのことが解ってしまふのよ。それに業火もね、うふっ。
雪が微笑んだ顔は何か不思議な力を秘めてゐるやうで、雪が微笑んだ瞬間辺りは一瞬にして《幸福》に包まれてしまったのであった。
――あなたには陰陽魚太極図の意味が解るわね。さう、《宇宙》よ。……わたし、哲学を、それも西洋哲学を専攻してゐるのだけども……西洋哲学の《論理》が今は虚しくてしやうがないの。……特に弁証法がね……虚しいのよ。……私の勝手な自己流の解釈だけれども……正反===>合が何だか自己充足の権化のやうな気がして気色悪いのよ。西洋の哲学者……特にヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)が自己陶酔したNarcist(ナルシスト)に思へてしやうがないの……西洋哲学専攻者としては失格ね、うふっ。
君も知ってゐるやうに私は筆談するとき《つまり》と先づ書き出さないと筆が全く進まないのは知ってゐるね。この時もさうだったのさ。私は常時携帯してゐるB五版の雑記帳とPenを取り出して雪と筆談を始めたのであった。
*******つまり、ヘーゲルには、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様が、つまり、陰中の陽と、つまり、陽中の陰が、つまり、無いんだよ。つまり、それで君は、つまり、William Blake(ヰリアム・ブレイク)を、つまり、読んでゐたんだね。
――さう……。
君にも教えておかう。雪は直感的に何故私が《つまり》を連発するのか解ったが、私の当時の思考は堂々巡りだったのさ。或る言葉を書き出すときその言葉を頭蓋内から取り出すには一度思考を頭蓋内で堂々巡りをさせないと駄目だったのだ。ストークスの定理は知ってゐるね。私の思考はストークスの定理を地で行ってゐたのさ。
*******つまり、キェルケゴールも、つまり、読むと善い。つまり、陰陽魚太極図は、つまり、その後でも、つまり、善い。つまり、僕が、つまり、さっき、つまり、「キルケゴール全集」を、つまり、買ったから、つまり、僕が、つまり、読んだら、つまり、君に、つまり、あげるよ。
――有難う。でも、借りるだけね、うふっ。
*******つまり、君は、つまり、知ってゐるかな、つまり、渦は、つまり、未だ数式では、つまり、物理数学的に、つまり、記述、つまり、出来ないことを ?
――えっ ! 知らないわ。さうなの……
(以降に続く)
《人間は考えへる葦である》といふ箴言で人口に膾炙してゐるフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家であるブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)が、晩年に、ある書物を構想しつつ書き綴った断片的なNoteを、彼の死後に編纂して刊行した遺著『パンセ』【筑摩書房:「世界文学全集11モンテーニュ パスカル集」(昭和四十五年十一月一日発行)より松浪 信三郎訳】から抜粋(一部私が改変)
第六篇より
三百四十六
思考が人間の偉大をなす。
三百四十七
人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考へる葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしづくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すよりもいっそう高貴であるであらう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知ってをり、宇宙が人間の上に優越することを知ってゐるからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆゑ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆゑ、われわれはよく考へるやうにつとめやう。そこに道徳の根原がある。
三百四十八
考へる葦。――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであらう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。
三百四十九
霊魂の非物質性。――自己の情念を制御した哲学者たちよ、いかなる物質がそれをよく為しえたであらうか?
――以下略
さて、人体の構成を分子Levelで言へば《水》がほぼ七割を占めるので、パスカルの《人間は考へる葦である》を更に推し進め私流にすると《人間は考へる水である》となる。
つまり、《水》が生物の存在を許さなければ生物は此の世に存在出来ないのである。
ところで、《水》がその存在を『許容』しない物質は此の世に存在するのであらうか。つまり、《水》は全てを、《神》の如く、《受容》するのであらうか。
この問題の考察は次回以降に譲る。
閑話休題。
突然であるが、私は他人の、そして動物の死相が見える。「虫の知らせ」等といふ言葉があるので死相が見えることは別段不思議なことだとは考へてゐないが、しかし、他人の死相が見えてしまふことは何とも遣り切れないものである。経験則に過ぎないが、私に死相が見えてしまった人はどんな医学的な治療をしても三年以内には必ず死ぬのである。
先づ、眼光から《生気》が消えると言へば良いのか、死に行く人の眼光は異様に見えるのである……。
そして、他人の死相は死に行く星の様相とそっくりなのである。
例へば、「SN 1987A、即ち超新星1987A」、「エーターカリーナ星」、「エッグ星雲」、「リング星雲」等等と他人の死相は似てゐるのである……。
閑話休題。
星はその最後には星の中心核内にある全てのHelium(ヘリウム)を使ひ切り、次に何が起こるのかはその星の質量によって変はるのであるが、最も重い星、太陽質量の6~8倍以上の質量を持つ星は、十分な圧力が核内にあるため、核融合で炭素原子を燃やし始め、炭素が無くなると超新星として爆発し中性子星やBlack hole(ブラックホール)が後に残る。軽い星は燃え尽きながら外層を噴き出して美しい惑星状星雲を作る。中心核は高温の白色矮星として残る。
星の死後残った中性子星やBlack holeや白色矮星は人で言へば『霊魂』である、と、私は考へてゐるが、つまり、パスカルと同じく『霊魂』は存在すると考へてゐるのである。といふのも人間の構成は宇宙の構成と原子Levelでは似てゐて『人体』を『宇宙』に喩へるのは極々一般的な考へ方であるからである。
第一章は序といふ事で更なる考察は次回以降に譲る。
ここで話が横道に逸れる私の《死後の世界》について預言しておかう。
私が死して後、私のゐない此の世の様こそ私の《死後の世界》の様相を映してゐると考へておくれ。君や嘗ての雪、即ち攝願やSalonの仲間を初め、私のゐない此の世がまあまあ過し易ければ私は極楽浄土にゐるし、此の世が地獄の有様だとすれば私も地獄に堕ちたと思ってくれ給へ。私のゐない此の世の有様こそ私の《死後の世界》に外ならないのさ。
まあ、それはそれとして、私の死後、君達は、特に攝願、つまり俗名でいふところの雪は彼女が出家するまでに私が施した、例へば雪の為されるがまま私が何の抵抗もせずそれに無言で従ったことは、雪の「男」に対する憎しみやそれに伴ふ底知れぬ苦悩といふ雪の内部でばっくりと傷口の開いた《心の裂傷》を縫合しその傷に軟膏薬を塗布して治療する意図があってのことで、雪も癒された筈だが、といふのも幾ら《生きる屍》に成り下がったとはいへ、私も生物学的には「男」そのものだからね。
そして、雪は出家し攝願と為った訳だが、攝願が尼僧でゐる間は《禊の時間》に過ぎない。攝願の内部の《心の裂傷》が癒えその傷の《瘡蓋(かさぶた)》が剥がれ落ちると攝願の《禊の時間》は終はりを告げる。私も君もSalonの仲間も知ってゐる「男」に攝願は惚れ、攝願は何もかも捨ててその「男」の元へ身を寄せる筈だ。再び雪に戻るのさ。「男」は「男」で雪に逢った時からずっと惚れてゐた。そこで雪はその「男」の子を身ごもり「母」になる。雪の第一子は男の子で雪はその子に私の名を付ける。勿論、雪の「男」も大賛成さ。まあ、これ以上は話さない方がいいので黙って彼の世に持って行くよ。
さて、そこで君にお願ひがある。雪は寺を出た後、その罪悪感に悶絶する程苦悩し続けることになるが君は雪の良き理解者となって雪の「愚痴」の聞き役になってくれ給へ。お願いする。さうすることで君達に起こるであらう艱難辛苦も乗り越へられ私も浄土で安らげるといふものさ。重ね重ね宜しく頼むよ。
話を戻さう。
ところで、古本屋街を漫ろ歩きしてゐた私と雪との間には雪がぽつりぽつりと一方的に私に話す以外殆ど会話は無かった。
沈黙。Salonの仲間とは違った心地よさが雪との間の沈黙にはあったのだ。互ひが互ひを藁をも縋る思ひで「必要」としてゐたことははっきりとしてゐたので、多分、雪と私の間には――他人はそれを「宿命」とか「運命」とか呼ぶが――互ひに一瞥した瞬間に途轍もなく太い《絆》で結ばれてしまったのは確かだ……。
――ねえ、この古本屋さんに入りましょう
少し強めに雪に握られた右手首を通して雪の心の声が聞こえて来たのであった……
(以降に続く)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ニュートリノ
ニュートリノ (Neutrino) は、素粒子のうちの中性レプトンの名称。中性微子とも書く。 ヴォルフガング・パウリが中性子のβ崩壊でエネルギー保存則が成り立つようにその存在仮説を提唱した。「ニュートリノ」の名はβ崩壊の研究を進めたエンリコ・フェルミが名づけた。フレデリック・ライネスらの実験によりその存在が証明された。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E)を参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ニュートリノ振動
ニュートリノ振動(ニュートリノしんどう)は、ニュートリノが質量をもつことでニュートリノの種類(フレーバー)が変わる現象。スーパーカミオカンデが1998年に大気から降り注ぐニュートリノを観測することによって、この現象が実証された。現在日本では人工的にニュートリノを発生させスーパーカミオカンデで振動現象を観測する実験が行われている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E%E6%8C%AF%E5%8B%95)を参照
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埴谷雄高・小川国夫『隠された無限 往復書簡〈終末〉の彼方に』【岩波書店:1988年10月28日 第一刷発行】より抜粋(第七信「非在とのっぺらほう 埴谷雄高」152~153頁)
宇宙内のすへての物体を透過するニュートリノは、ひたすら無限の空間と永劫の時間へ向って、飛びゆきつづけます。恐らく、ニュートリノに向かって、そうかな、と訊き質したら、そうさ、無限と永劫へ向って「実際」に自己を投げいれる現実的超越者なるものは、俺をおいてほかに何もいないさ、と、ニュートリノのなかの或る異端者、もしくは、或る愚昧者は得意げに答えるかもしれません。しかしまた、ニュートリノはいまだはっきりとは解明されていませんけれども、超微小な質量をもっていることですから、あらゆる物体を透過するとき――例えば、神岡鉱山の直径十五・六メートル、高さ十六メートルの円筒形の三千トンに及ぶ水をたたえた大水槽内部一面に取りつけられている光電子倍増管に、水中の素粒子と衝突したニュートリノが「光」を放つことによって確かめられた「数」を「十三秒内に十一個」と検出されたとき、この光の「数」こそは、絶望とも悲哀とも歓喜とも諦念とも放心ともつかぬ、「心の痛み」の悲痛な呻きの或る前駆症状を提示していると言えるのです。自由無碍に無限永劫へ向って飛びいっていると見えるニュートリノとても、かくのごとくして、つぎつぎと、その「質量」を失いつくした果て、無限永劫の何処か手前で、星の死から発足したニュートリノ自体の死に直面せざるを得なくなることになります。そしてそのとき、ファウストの「憂い」に似たところの或る種の薄暗い原言語が、死を前にしたニュートリノのこれまた薄暗い内部をさっと掠めゆく筈です。さらになお――無限永劫の手前でついに衰滅してしまったこのニュートリノの死骸は、宇宙の未知の蟻群によって何処かの薄暗い巣へ牽かれゆくことになるでしょう。
――略
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『物体』をほぼ全て透過してしまふNeutrino(ニュートリノ)の『孤独』の深さは多分底無しであらう。
『他』にぶち当たって『衝突』や『反射』しない『他』の存在しないNeutrinoの『自己認識』の術は、さて、何であらうか。果たしてNeutrinoは自己が此の世に存在してゐることを『認識』してゐるのであらうか……
――……吾、果たしてこの吾、此の世に《存在》してゐるの……か……
――お前は今、お前を《吾》と言ったが……お前が己を《吾》といふその存在根拠は何かな ?
――……《吾》たる根拠は……何も……無い……
――それではお前に尋ねるが……お前の仲間の極々少数の者が『素粒子』に打つかって微小な微小な仄かな蒼白き『光』を発光して『死んで』いくが……さて……その時以外お前が《吾》が《吾》であったと『自己認識』出来る瞬間は……無いのではないかな……するとだ、お前は『死』以外……己の存在を『認識』することが出来ない……此の世で最も『哀れ』な存在……
――否 !! Neutrino振動を知ってゐるな。《吾》は《吾》であるといふ『自同律の不快』によって《吾》は《吾》とは《異種》の《吾》に変容する……
――はっ。お前でさへ……《吾》なることを……《吾》なることの《底無しの苦悩》を知ってゐるとすると……『自己変容』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての此の世での慰めか……
――はっ、馬鹿が。『自己変容』 ? 何を甘っちょろいことをぬかしてをるか……『死』のみ此の世に『存在』させられた『もの』全ての慰めさ、はっ。
古本屋との遣り取りはいつも筆談だったので馴染みの古本屋の主人は多分今でも私のことを聾唖者だと思ってゐるに違ひない。それにそこの古本屋の主人は何かと私には親切でその日も「キルケゴール全集」を注文するとどれでも好きな本を一冊おまけしてくれるといふので私は、埴谷雄高の「死霊(しれい)」を凌駕するべく書き出したはいいが、書き出しの筆致の迷ひや逡巡等が取り繕ひもせずに直截的に書き記された現代小説の傑作の一つ、武田泰淳の「富士」の初版本を選んだのである。「富士」を読む時は私は何時もブラームスの「交響曲第1番 ハ短調 op.68」を聴く。どちらも作品を書き連ねることに対する迷ひや逡巡等がよく似てゐると思はないかい ? それに泰淳さんは盟友の椎名麟三が洗礼を受け基督者になった時、埴谷雄高が椎名を誹った事と純真無垢といふのか天衣無縫といふのか埴谷雄高曰く「女ムイシュキン公爵」たる泰淳夫人で著名な随筆家の百合子夫人に対する埴谷雄高の好意への多分「嫉妬」を死すまで根に持ってゐた節があるが、そこがまた武田泰淳の魅力でもある……
さて、雪はSalonの真似事が開かれてゐた喫茶店に着くまで終始私の右に並んで歩き、左手で私の右手首を少し強く握り締めたままであった。
馴染みの古本屋を出たとき、東の空には毒々しいほど赤々とした満月の月が地平から上り始めてゐたが、その満月の「赤」が私の目に張り付いた業火の色に似てゐたのである。
――成程……この業火の色は《西方浄土》の日輪の色を映したものか……
雪が私の右手首を少し強く握り締めてゐたのは多分理不尽な陵辱を受けた「男」に対する恐怖といふよりも
――今暫くは逝かないで
といふ私に対する切願が込められてゐたやうに私は確信してゐる。唯、私は女性に対しては「無頓着」なので雪のしたいやうにさせ、雪に為されるがまま夕闇の古本屋街を二人で漫ろ歩きを始めたのであった。
当然、私は伏目であった。雪は私の右手首を握ってで私を巧く「操縦」してくれたのである。雪は私を捕まへてないと何処か、つまり「彼の世」へ行ってしまふと直感的に感じてゐたのは間違ひない。
――今は未だ逝かないで……
(以降続く)
四象若しくは四神の北を指す玄武の図柄は、特にキトラ古墳の石室に描かれた玄武の写真を見ると様様な妄想を掻き立てるのである。
一方で玄武に似た『象徴』にギリシアの自らの尾を噛んで『無限』を象徴するウロボロスの蛇があるが差し詰め現代社会を象徴する蛇を図案化すると自らの尾から自らを喰らひ始め、自滅を始めた『蛇』、つまり現代を考えるとき必ず人類の絶滅といふことが頭を過ぎってしまふのである。
閑話休題。
玄武――その『玄』の字から黒を表はすのは直ぐに想像出来る。黒から『夜』へと想像するのは余りに単純だが、思ふに玄武は『北の夜空』の象徴ではないのかと仮定出来る。
さて、キトラ古墳の玄武の蛇はウロボロスの蛇のやうに自らの尾を噛んではをらず、尾が鉤状になって蛇の首に絡んだ格好になってゐるが、これは正に北の夜空の星の運行を端的に表はし、現代風に言へば『円環』若しくはニーチェの『永劫回帰』すらをもそこには含んでゐるやうにも思ふ。日本の古代の人々は蛇が『脱皮』を繰り返すことから『不死』若しくは『永久(とは)』を表はし、また『龍』の化身、更には『水神』をも表はしてゐたらしいので、多分、北極星を象徴してゐるであらう『亀』と併せて考へると玄武は『脱皮』をしながら、つまり『諸行無常』といふ『異質』の概念を敢へて飲み込んだ『恒常普遍』といふ概念が既に考へ出されてゐたと仮定できるのである。更に何処の国の神話かは忘れてしまったが、世界を『支へる』ものとして『亀』が考へられてゐたことも含めると玄武は今もって『普遍』へとその妄想を掻き立てる現在も『生きてゐる』神である。
少なくともキトラ古墳の玄武は千数百年生き続けてゐたのは確かで、さて、現代社会で千年単位で物事が考へられてゐるかといふと皆無に近いといふのが実情ではないかと思ふ。
滅び――現代は『普遍』といふ概念がすっぽりと抜け落ちた『諸行無常』――それは中身が空っぽな概念に思ふ――を自明の事としてしか物事を考へない、つまり数にすれば圧倒的多数である『死者』とこれから生まれてくるであらう未出現の『未来人』の事は一切無視した現在『生存』してゐる人間の事しか考へない『狭量』な『諸行無常』といふ考へに支配された世界認識しか出来ないのではなからうか。
少なくとも千年は生き残る『もの』を現代社会は創造しないと人類の『恥』でしかないやうに思ふ今日この頃である。
眩暈から何事もなかったやうにすっくと立ち上がった私を見て君と雪は初めて見詰め合って互ひに安堵感から不図笑顔が零れたが、その時の雪の横顔は……今更だが……美しかった。雪は何処となくグイド・レーニ作「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」の薄倖の美女を髣髴とさせるのだが、しかし、凛として鮮明な雪の横顔の輪郭は彼女が既に『吾が道ここに定まれり』といった強い意志を強烈に表はしてゐたのである。
―大丈夫?
と雪が声を掛けたが私は一度頷いた切り茜色の夕空をじっと凝視する外なかった……。
何故か――
君は多分解らなかっただらうが――後程雪には解ってゐたのが明らかになるが――私には或る異変が起きてゐたのだ。血の色の業火が目に張り付いたことは言ったが、もう一つ私の視界の周縁を勾玉模様の小さな光雲――これは微小な微小な光の粒が集まった意味で光雲と表現してゐるが――が、大概は一つ、時計回りにゆっくりと回ってゐることである。
人間の体は殆ど水分で出来てゐることと此処が北半球といふことを考慮すると時計回りの回転は上昇気流、つまり、私の視界から何かが――多分それは魂魄に違ひない――が放出し続けてゐることを意味してゐたのである……
勾玉模様の光雲が見えるのは大概は一つと言ったが、時にそれが二つであったり三つであったり四つであったりと日によって見える数が違ってゐた。それは私の想像だが、死者の魂と言ったらよいのか……星がその死を迎えるとき大爆発を起こして色色なものを外部に放出するが、人の死もまた星の死と同じで人が死の瞬間例へば魂魄は大爆発を起こし外部に発散する……。それが此の世に未だ『生きる屍』となって杭の如く存在する私をしてカルマン渦が発生し、それが私の視界の周縁に捉えられるのだ。だから多分、その光雲は一つは私の魂魄でその他は死んだばかりの死者の魂魄の欠片に違ひない……私はさう解釈してしまったのだ……
さて、君と雪と私はSalonの真似事が行はれる喫茶店に向け歩き出した。その途中に古本屋街を通らなければならないのだが、君は気を利かせてくれたのだらう、その日に限って古本屋には寄らず、私と雪を二人きりにしてくれたね。有難う。
私は先づ馴染みの古本屋で白水社版の「キルケゴール全集」全巻を注文しそれから雪とぶらぶらと古本屋を巡り始めたのだった。
(以降続く)
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広辞苑より
五蘊
(梵語skandha)現象界の存在の五種類。色(しき)・受・想・行(ぎゃう)・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質及び肉体、受は感覚・知覚、想は概念構成、行は意志・記憶など、識は純粋意識、蘊は集合体の意。
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
場
場(ば、field、工学では界と訳される)とは、物理量を持つものの存在が別の場所にある他のものに影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。
場では、座標および時間を指定すれば、(スカラー量、ベクトル量、テンソル量などの)ある一つの物理量が定まる。つまり、数学的には空間座標が独立変数となっているような関数として表現できることがその特徴である。 場に配置される物理量の種類により、スカラー場、およびベクトル場などに分類することができる。
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
ストークスの定理
ベクトル解析におけるストークスの定理は、ベクトル場の回転を曲面上で面積分したものが、元のベクトル場を曲面の境界で線積分したものに一致することを述べたものである;
ここで S は積分範囲の面、C はその境界の曲線である。ストークスの定理を用いることで、電磁気学ではマクスウェルの方程式からアンペールの法則などを導くことができる。
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頭蓋内といふものは考へれば考へる程不思議な時空間に思へてならない。
例へば何かを思考する時、私は脳自体を認識することなく『思考』する。これは摩訶不思議な現象であるやうに思へてならない。
さて、『脳』とは一体何なのか?
『脳』のみ蟹や海老等の甲殻類の如く頭蓋骨内にあり、手や足などの肉体とは違ひ、思考してゐる時、『脳』を意識したところで漠然と『脳』の何々野の辺りが活動してゐるかなとぐらゐしか解らず――それも脳科学者が言ってゐることの『知識』をなぞってゐるに過ぎないが――私には『脳』の活動と『思考』がはっきり言って全く結び付かないのである。これは困ったことで、『脳』の活動と『思考』することが理路整然と結び付かない限り何時まで経っても霊魂の問題は、つまりOccult(オカルト)は幾ら科学が発展しやうが消えることはなく、寧ろ科学が発展すればするほどOccultは衆人の間で『真実』として語られるに違ひないのである。
そこで上記に記したストークスの定理をHintに頭蓋内を『五蘊場』といふ物理学風な『場』と看做して何とか私の内部で『脳』の活動と『思考』を無理矢理結び付けやうとしなければ私は居心地が悪いのである。全くどうしやうもない性分である……。
例へば一本の銅線に電流が流れると銅線の周辺には電磁場が生じる。そこで脳細胞に微弱な電流が流れると『場』が発生すると仮定しその『場』を『五蘊場』と名付けると何となく頭蓋内が解ったかのやうな気になるから面白い。
『脳』が活動すると頭蓋内には『五蘊場』が発生する。それ故『人間』は『五蘊』の存在へと統合され何となく『心』自体へ触れたやうな気分になるから不思議である。
多分、『脳』とは『場』の発生装置で『脳自体』が『思考』するのではなく『脳』が活動することによって発生する『五蘊場』で『人間』は『思考』する。
さて、ここで妄想を膨らませると、世界とか宇宙とか呼ばれてゐる此の世を『神』の『脳』が活動することによって発生した『神』の『五蘊場』だとすると科学の『場』の概念と宗教が統一され、さて、『大大大大統一場の理論』が確立出来るのではないかと思へてくる……
――宇宙もまた『意識』を持つ存在だとすると……
――さう、宇宙もまた『夢』を見る……
――その『夢』と『現実』の乖離がこの宇宙を『未来』に向かせる原動力だとすると……
――『諸行無常』が此の世の摂理だ !!
雪の目から恐怖の色がすうっと消えたと思った瞬間、私は眩暈に襲われたのだ。
――どさっ。
あの時、先づ、目の前の全てが真っ白な霧の中に消え入るやうに世界は白一色になり、私は腰が抜けたやうにその場に倒れたね。意識は終始はっきりしてゐた。君と雪が突然の出来事に驚いて私に駆け寄ったが、私は軽く左手を挙げて
――大丈夫
といふ合図を送ったので君と雪は私が回復するするまでその場で見守り続けてくれたが、あの時は私の身体に一切触れずにゐて見守ってくれて有難う。私が他人に身体を勝手に触られるのを一番嫌ってゐる事は君は知ってゐる筈だから………。
あの時の芝の青臭い匂ひと熊蝉の鳴き声は今でも忘れない。
私が眩暈で倒れた時に感覚が異常に研ぎ澄まされた感じは今思ひ返しても不思議だな……。私は私の身に何が起きてゐるのか明瞭過ぎるほどはっきりとあの時の事を憶えてゐるよ。
それでも眼前が、世界全体が、濃霧に包まれたやうに真っ白になったのは一瞬で、直ぐに深い深い漆黒の闇が世界を蔽ったのだ。つまり、最早私はその時外界は見えなくなってゐたのだ。
するとだ、漆黒の闇の中に金色(こんじき)の釈迦如来像が現はれるとともに深い深い漆黒の闇に蔽はれた私の視界の周縁に勾玉の形をした光雲が現はれ、左目は時計回りに、右目は反時計回りにその光雲がぐるぐると周り出したのだ。
そして、その金色の釈迦如来像がちらりと微笑むと不意と消え世界は一瞬にして透明の世界に変化(へんげ)した……。
その薄ら寒い透明な世界に目を凝らしてゐると突然業火が眼前に出現した。それは正に血の色をした業火だった。
その間中、例の光雲は視界の周縁をずっと廻り続けてゐたよ。
私が悟ったのはその時だ。自分の死をそれ以前は未だ何処となく他人事のやうに感じてもゐたのだらう、まだ己の死に対して覚悟は正直言って出来てゐなかった、が、私が渇望してゐた『死』が直ぐ其処まで来ているなんて……私はその時何とも名状しがたい『幸福』――未だ嘗て多分私は幸福を経験したことがないと思ふ――に包まれたのだ。
――くっくっくっ。
私は眩暈で芝の上にぶっ倒れてゐる間『幸福』に包まれて内心、哄笑してゐたのだ。
しかし、業火は私が眩暈から醒め立ち上がっても目の奥に張り付いて……今も見えてしまうのだ。
さう、時間にしてそれは一分位の事だったよね。私は不図眩暈から醒め何事もなかったかのやうに立ち上がったのは。君と雪は何だかほっとしたのか笑ってゐたね。その時君は初めて雪と目が合った筈だが、君の目には雪はどのやうに映ったんだい?
私には雪はその時既に尼僧に見えたのだ……
(以降続く)
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例へば、関数
は x = 0 で
に発散し、定義されないので、このとき x = 0 は特異点であるといふ。
《出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)の特異点の項より》
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さて、此の世の時空間に物理学上の特異点は存在しないのかと問はれれば、即、Black holeに存在するが『事象の地平面』で覆はれてゐるため一般的な物理法則の、例へば因果律などでは全く問題ないと教科書的には即答出来るが、しかし、ここで特異点なるものを夢想すると何やら面妖なる『存在』の、若しくは『物自体』の影絵の影絵のその尻尾が捉まへられさうでもある。
先づ、±∞から単純に連想されるものに合はせ鏡がある。
二枚の鏡を鏡に映す事で恰も無限に鏡が鏡の中に映ってゐるが如き幻影に囚はれるが、それは間違ひである。鏡の反射率と光の散乱から鏡の中の鏡は無限には映らないのは常識である。
だが、二枚の鏡をゆっくりと互ひに近づけて行き、最後に二枚の鏡をぴたっと合はせてしまふと、さて、二枚の鏡に映ってゐる闇の深さは『無限』ではないのではなからうか。
――眼前に『無限』の闇が出現したぜ。
眼前のぴたっと合はせられた二枚の鏡の薄い薄い時空間に『無限』の闇が出現する……
――其の名は何ぞ
――無限……
――無限? ふむ……。其に問う、『此の世に《無限》は存在するのか?』
――ふむ。存在してゐると貴君が思へば、吾、此の世に存在す。しかし、貴君が存在してゐないと思へば、吾、存在せず……
――すると、己次第といふことか……唯識の世界だな……
さて、瞼を閉ぢてみる。
――眼前の薄っぺらい瞼の影もまた『無限』の闇か……
すると、闇は闇自体既に『無限』といふことになる。
――光無き漆黒の闇の中には無数の『存在』が隠れてゐる……か……
さうである。闇は何物にも変幻自在に変容し吾の思ふが儘に闇はその姿を変へる。
――何たる事か ! !
――へっ。吾、闇は、水の如し……だぜ。
――するとだ、其はその薄っぺらい薄っぺらい闇自体に全存在を隠し持ってゐる、へっ、例へば創造主か……
――……
――神、其れは『闇』の異名か……、ちぇっ。
私は其の瞬間、眼前の二枚の鏡を床に擲ち、粉々に割れた鏡の欠片に映る世界の景色をじっと何時までも眺め続けたまま一歩も動けなかったのであった……
君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが雪は未だ「男」に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどうしやうもなく、雪は「男」を目にすると雪の内部に棲む「雪自体」がぶるぶると震へ出し雪の内部の内部の内部の奥底に「雪自体」が身を竦めて「男」が去るのをじっと堪へ忍ぶといった状態で雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。
その点雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかったのだらう、つまり、雪にとって私は最早「男」ではなく人畜無害の「男」のやうな存在、しかも
――この人の人生はもう長くない……
と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ存在を雪は理解してしまったと、そんな雪を私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまったのだ。
と思ふ間も無く私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさずこれまた全的に私の行為を受け入れてくれたのだ。
さて、君も薄薄気付いてゐた筈だが、私が何故「黙狂者」となってしまったかを。それは私の生い先がもう短いといふこととも関係してゐたのだらうが、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出やうと一斉に口から無数の言葉が飛び出してしまふからなのだ。私の内部の「未来」は既に無きに等しいので私の内部の「未来」には時系列的な秩序が在る筈もなく、つまり、私の「未来」は既に無いが故に「渾沌」としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまってゐて「他者」にはそれが「無言」に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が私の身に降りかかってゐたのだ。
君は私が雪の頭にそっと手を置いた時私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の「言葉」を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて黙って私と雪との不思議な「会話」を見守ってくれたが、仮に心といふものが生命体の如き物で傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざっくりとKnifeで抉られあの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで「男」に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかったのだ。それが私には見えてしまったので《手当て》の為に雪の頭にそっと手を置いたのだ。
それにしても雪の髪は烏の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知ってゐるだらう。虹色を纏ったあの烏の羽の黒色ほど美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴったりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きを放ってゐた。
さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうっと消えたのが解ったかい?
(以降に続く)
その赤松は古城の堡塁址の北側といふその堡塁址で一番棲息環境が悪い一角に半径五メートルの砂地に芝が植ゑられてゐる円の中心に堂々と立ってゐた。多分その赤松には何かの謂れがあるに違ひないが詳細は不明である。しかし、その赤松はこの地区の人々に何百年にも亙って大切に守られてきたことはその赤松の姿形の何れからも一目瞭然であった。
私は何時もその堡塁址を訪れる時は南方より楢や山毛欅(ぶな)や檜などが生えてゐる様を武満徹の音楽に重ねながらゆっくりと歩くのが好きであった。それらはまたあの赤松の防風林になってゐるのも一目瞭然で、しかし、それにしてもその古城の堡塁址の林は人の手がよく行き届いた林であった。
ところが、赤松が立ってゐる場所近くになると武満徹の音楽はぷつんと終はって突然笙の音色が聴こえて来るかのやうに辺りの雰囲気は一変するのである。赤松が生えてゐる場所は雅楽が似合ふある種異様な場所であった。
林が突然途切れるとあの赤松がその威容を誇るかのやうに堂々と立ってゐるのが見える。
赤松の幹の赤褐色が先づ面妖な「気」を放つのである。赤松の幹の色は嘗て此処に威風堂々と構へてゐた城が焼け落ちるその炎の色を髣髴とさせるのだ。
芭蕉を捩って本歌取りをしてみると
赤松や 兵どもが 夢の跡
といふ句がぴったりと来るのである。
私はその赤松に対するときある種の儀式として、先づ此の世が四次元以上の時空間で成り立ってゐることと上昇気流の回転を意識しながらその赤松の周りを反時計回りにゆっくりと一周してから赤松に一礼して赤松に進み出でるのである。そして、左手でその赤松の幹を撫で擦りながら『今日は』と挨拶をするのである。そこで赤松を見上げその見事な枝振りに感嘆し、この赤松もまた螺旋を描いてゐるのを確認して芝に胡坐をかいて坐すのが何時もの慣はしであった。
…………………
…………………
――雅楽の『越天楽』が何処からか聴こえて来る……
不意に日輪を雲が横切る……
――突然、夢幻能『芭蕉』が始まる……
――今は……何時か……此処は……何処か……全ては夢幻か……
William Blake著
《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳
「如何なる理神論も在り得ない」
[a]
論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。
一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。
二 人間は自身の推理力によっては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。
三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかった。
四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。
五 人間の希求は自身の知覚によって限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求することは出来ない。
六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。
結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に存在しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽す(停止する)のみである。
[b]
一 人間の知覚は認識機構によって制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上のことを知覚(認識)する。
二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された存在と同じであることはない。
三 欠落
四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち車輪複合体たる水車小屋に変容するであらう。
五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もっと ! もっと ! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。
六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求することが出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙って与へられし運命であるに違ひない。
七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふことは無限であり自身もまた無限である。
応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。
それ故、神は吾吾が存在する限り存在し、即ち吾吾は神が存在する限り存在するのであらう。
《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳
「全ての宗教は一つである」
荒野の一嘆き声
論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。
第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全存在物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。
第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちそのことはまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。
第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話すことは出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。
第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出すことは出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかった。故に全宇宙型詩的霊性は存在する。
第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受したことから派生する。
第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。このことは肉体的感覚の限界性から必然である。
第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。
真の人間は自身が詩的霊性であることの源である。
以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香ってくるのでね。
さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらじっと見続けてゐた雪の顔は、目はフランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭い眼つきに一見見えるがよくよく見ると雪の目は柔和そのものであった。
(以降に続く)
――今年も芽吹いたか……
その柳を見た時からもう既に数年経つが未だ健在である。何年川の水に浸かってゐるのだらうか。その柳の木を最初に目にした時には既に川の中であった。川に洗われ剥き出しになった根根には空き缶やらPolyethylene-Bucket(ポリバケツ)やらVinyl(ビニール)やら塵が沢山纏はり付いてゐてたので何年にも亙り川の中に在り続けてゐたといふことは想像に難くない。
しかし、その柳は凛としてゐた。
多分、完全に水に没してゐる部分は腐ってゐる筈で、如何様にその柳が完全に水の中に横倒しで生き続けてゐるか摩訶不思議でならないが、その生命力の凄まじさは何時見ても驚きであった。
――何がお前をさう生きさせてゐるのか……
それにしても自然は残酷である。梅雨時の大雨か台風の豪雨かは解らぬがその柳が立ってゐた後が岸辺には今もくっきりと残されてゐた。多分、二本並んで柳は岸に立ってゐた筈で、その片割れは今も岸にしっかりと根を張り泰然と生きてゐるが、其処から数meter離れた岸には濁流がざっくりと抉り取った後が残ってをり、多分、川の中に横倒しで生きてゐるあの柳の木は元元其処に悠然と立ってゐたに違ひない。
――どばっ、どぼっ、どどどどど――
しかしながら濁流は見れば見るほどその凄まじさに引き込まれさうになる不思議な魔力を持ってゐる。
私は台風一過等で起こる川の凄まじき濁流を見るのが好きであった。橋すらゆっさゆっさと揺さぶるほどの強力(がうりき)、この魅力は堪らない。目が濁流の凄まじき流れに慣れると何だか物凄くSlow motionで川が流れてゐるのではないかといふ錯覚が起こる。そこで不意に川に飛び込みたくなる衝動が私に生じ、『あっ』と思って吾に返るのである。その繰り返しが私は多分堪らなく好きなのだらう。濁流に魅せられたらもう其処から少なくとも一時間は動けなくなる。
――あっ、渦が生じた……。木っ端が渦に飲み込まれた……。あっ、大木だ。あっと、大木すら渦が飲み込んだ……。どばん ! ! 大木がConcreteの橋脚に激突した……
……………
それにしてもあの川の中の柳の木はよくあそこで踏み堪えたものだとつくづく思ふ。凄まじき濁流に投げ出されたならば最早流されるだけ流されるしかない筈なのだが、あの柳の木はあそこで止まったのだ。さうして何年も芽吹き生き続けてゐる。これまた凄まじき生命力である。水に浸かった部分は多分もう腐乱してゐる筈である。それでも尚、あの柳の木は川底に多分根を張ってゐるに違ひない。これまた凄まじきことよ……
――お前は何故吾を、この水の中の柳を哀れむのか
――否、感嘆してゐるのさ
――何を ?
――だから……あなたの生命力の凄さを……
――ふっ、馬鹿が
――何故 ?
――『自然』なことの何を感嘆するのか、はっ。
――すると、あなたは『自然』を『自然に』受け入れてゐるのですか ?
――受け入れるも受け入れないもない ! ! 此処が吾の生きられるこの世で唯一の場所だから……受け入れるも受け入れないもない ! !
――すると、
――黙れ ! ! お前に問ふ ! ! お前がこの世で唯一生きられる場所は何処だ ?
――……
――去れ ! ! 此処はお前のゐる場所ではない ! ! はっ。
君は多分解ってゐた筈だが、自同律を嫌悪する私は性に対してもその通りだったのだ。思春期を迎へ夢精が始まり、まあ、それは《自然》のことだから何とか自身を納得させたが自慰行為は幻滅しか私に齎さなかった。射精の瞬間の《快楽》がいけないのだ。その《快楽》は私に嘔吐を反射的に齎すものでしかなかった……
君は「xの0乗 = 1」《(x > 0):0より大きい数の 0 乗は 1 となる》といふことは知ってゐるね。私はこの時自同律の嫌悪を超克するには《死》しかないと確信してしまったのだ。0乗の零が一回転に見え、即ち私にとってそれは現世での《一生》に見えてしまったのだ。生命は死の瞬間確率1にになる。つまり、1=1といふ自同律が《死》で完結するのだ。これで自同律の嫌悪は終はる……
――はっ。
…………
ところで、雪を除いて過去に私を一方的に愛してしまった女性たちは或る時期を過ぎると必ず私に性行為を求めて来たので私は《義務》でそれら全てに応じたが、性行為が終わると《女の香り》が私を反射的に嘔吐させる引き金になってしまったのだ。勿論、私は同性愛者ではない。だから、尚更いけないのだ。或る時、私が射精した瞬間、女性の顔面に嘔吐してしまったのを最後に、私は女性との性行為もしくは性交渉をきっぱりと已めてしまった……
また雪を除いての話だが、それに《女体》の醜悪さはどうしようもなかった。彼女たちは彼女自身の《脳内》に棲む《自身の姿》をDietなどと称しながら自身の身体で体現する《快楽》が自同律の《快楽》だと知ってゐた筈だが、私の嘔吐を見ながらも已めはしなかったのだ。結局彼女たちの理想の体型は痩せぎすの《男の身体》に《女性》の性的象徴、例へば乳房を、しかもそれが豊満だと尚更良いのだが、そんな《不自然な》体型を《女体》と称して私に見せ付けたのだ。これが醜悪でないならば何が醜悪なのか……
そこに雪が現われたのだ。
私が欅の木蔭のBenchにゐた雪を見つけた時、反射的に私の足は雪に向かって歩き始めてしまった。その時、雪は読んでゐた本から目を上げ私を一瞥すると私の全てを一瞬にして理解したやうに可愛らしい微笑を顔に浮かべ私を彼女の《全存在》で受け入れてくれたのだ。君にはこの時の雪と私の間で通じ合ひ、それをお互ひ一瞬で理解したと認識し出来てしまったと多分お互ひ同士感じた筈である感覚は多分理解不能だと思ふが《奇跡的に》それがその時起こってしまったのだ。
吾ながら今もってその時の事は不思議でならないがね……
君は私が《黙狂者》だと認識してゐたので君は多分私と雪との関係をこれまた一瞬で理解したのだらうね、君は駆け出して私より先に雪に声を掛けたね。あの時は有難う。
――君、何の本を読んでゐるの ?
――William Blake(ヰリアム・ブレイク)よ。
――それは丁度いい。良かったならなんだけど、これから僕たちBlakeの《THERE IS NO NATURAL RELIGION》と《ALL RELIGIONS ARE ONE~The Voice of one crying in the Wilderness~》をネタにして男ばかりだけど……飲み会みたいなSalonみたいな真似事をしようとしてゐるので……君も来ないかい ?
――いいわよ。
――本当 !? じゃあ、僕らと一緒に行かう。
雪は君と会話してゐる間もずっと私を見て微笑んでゐたのは君も覚えているだらう。その時私には雪が尼僧の像と二重写しで見えてしまっていたのだ……
William Blake著
《THERE IS NO NATURAL RELIGION》
[a]
The Argument. Man has no notion of moral fitness but from
Education. Naturally he is only a natural organ subject to
Sense.
I Man cannot naturally Percieve. but through his natural or
bodily organs.
II Man by his reasoning power. can only compare & judge of
what he has already perciev'd.
III From a perception of only 3 senses or 3 elements none
could deduce a fourth or fifth
IV None could have other than natural or organic thoughts if
he had none but organic perceptions
V Mans desires are limited by his perceptions. none can desire
what he has not perciev'd
VI The desires & perceptions of man untaught by any thing but
organs of sense, must be limited to objects of sense.
Conclusion. If it were not for the Poetic or Prophetic character
the Philosophic & Experimental woud soon be at the ratio of all
things & stand still unable to do other than repeat the same dull
round over again
[b]
I Mans perceptions are not bounded by organs of perception. he
percieves more than sense (tho' ever so acute) can discover.
II Reason or the ratio of all we have already known. is not
the same that it shall be when we know more.
[III lacking]
IV The bounded is loathed by its possessor. The same dull
round even of a univer[s]e would soon become a mill with
complicated wheels.
V If the many become the same as the few, when possess'd,
More! More! is the cry of a mistaken soul, less than All cannot
satisfy Man.
VI If any could desire what he is incapable of possessing,
despair must be his eternal lot.
VII The desire of Man being Infinite the possession is Infinite
& himself Infinite
Application. He who sees the Infinite in all things sees
God. He who sees the Ratio only sees himself only.
Therefore God becomes as we are, that we may be as he is
《ALL RELIGIONS ARE ONE》
〔The Voice of one cryng in the Wilderness〕
The Argument As the true method of knowledge is experiment
the true faculty of knowing must be the faculty which experiences.
This faculty I treat of.
PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that
the body or outward form of Man is derived from the Poetic Genius.
Likewise that the forms of all things are derived from their Genius.
which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit & Demon.
PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and with
the same infinite variety) all are alike in the Poetic Genius
PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart, but
he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from the Poetic
Genius adapted to the weaknesses of every individual
PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out
the unknown. So from already acquired knowledge Man could not ac-
quire more. therefore an universal Poetic Genius exists
PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from each
Nations different reception of the Poetic Genius which is every where
call'd the Spirit of Prophecy.
PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original
derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
confined nature of bodily sensation
PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So
all Religions & as all similars have one source
The true Man is the source he being the Poetic Genius
(出典:PENGUIN CLASSICS版 「WILLIAM BLAKE――THE COMPLETE POEMS」より頁75~77)
(以降に続く)
********************副題**************************************
Pianist ハロルド・バッド(Harold Budd)の静謐な演奏が白眉な、Ambient Music(環境音楽)の創始者であり、現在ではClassicの現代音楽家とも目されるブライアン・イーノ(Brian Eno)の美しき1980年の作品「 Plateaux of Mirror 」(邦題:鏡面界)を聴きながら……
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追記
イーノの作品で私はNASA制作の映像作品のSoundtrack盤「APOLLO(邦題:アポロ)」が一番のお気に入りである。
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万華鏡を覗いてゐるとその変幻自在で色鮮やかな千変万化する鏡面世界は私の思考を無理矢理にでも宇宙に誘(いざな)ふのである。
――Black hole(ブラックホール)……
最近、Black holeは存在しないといふ新説が発表されたが、ここではBlack holeが存在するものとして話を進める。
さて、光すら逃れられないBlack hole内はその名に反して眩いばかりに光り輝く鏡面世界なのではないかと最近、特にさう思ふ。銀河の中心域の輝きを見ると尚更さう思へてくるのである。
――Light-shining hole……
唯、シュヴァルツシルト半径または重力半径と呼ばれるBlack holeの境界域のみ漆黒なのであって、仮にその境界域を鏡面界と仮定すればBlack holeは万華鏡と同じと考へられなくもないのである。
――もしかすると銀河の中心域もまた鏡で出来た『林檎宇宙』([水鏡]を参照して下さい)の縮図なのかもしれない……
――Fractal(フラクタル)的に考へると……この私が存在してしまってゐるこの宇宙自体が巨大な巨大な巨大な巨大なBlack holeと考へられなくもないではないか……
――ふっ、面白い……
――するとだ……宇宙外にはこの宇宙を中心とする巨大な巨大な巨大な巨大な銀河が形作られてゐるのかもしれない……
――するとだ……この宇宙をBlack hole型宇宙だと仮定すると……この宇宙を閉ぢ込め包み込む更に巨大な巨大な巨大な巨大なBlack hole型の宇宙が存在し、それが無限に続いてゐるとすると……
――ふっ。鏡面界を皮と見立てると……この世といふものは巨大な巨大な巨大な巨大な……鏡で出来た無限の『玉葱宇宙』といふことか……
――また……『無限』といふ名の陥穽に落ちてしまったぞ……
と、不意にイーノの「鏡面界」が終はったのであった。
私が何故Televisionを殆ど見ず、街中を歩く時伏目になるのかを君はご存知の筈だが……私には他人の死相が見えてしまふのだ。街中で恋人と一緒に何やら話してゐて快濶に哄笑してゐる若人に死相が見える……体の不自由なご主人と歓談しながらにこにこと微笑み車椅子を押してゐるそのご婦人に死相が見える……Televisionで笑顔を見せてゐるTalentに死相が見える等々、君にも想像は付く筈だがこの瞬間の何とも名状し難い気分……これは如何ともし難いのだ。それが嫌で私はTelevisionを見ず、伏目で歩くのだ。
そんな私が馥郁たる仄かな香りに誘はれて大学構内の欅を見た時、その木蔭のBenchで雪が何かの本を読んでゐるのを目にしたのが私が雪を初めて見た瞬間だった。
その一瞥の瞬間、私は雪が過去に男に嬲られ陵辱されたその場面が私の脳裡を掠めたのである。そんなことは今まで無かったことであったが雪を見た瞬間だけそんな不思議なことが起こったのである。
その時から私は雪が欅の木の下に座ってゐないかとその欅の前を通る度に雪を探すやうになったのである。
君もさうだったと思ふが、私は大学時代、深夜、黙考するか本を読み漁るか、または真夜中の街を逍遥したりしては朝になってから眠りに就き夕刻近くに目覚めるといふ自堕落な日々を送ってゐたが、君とその仲間に会ふために夕刻に大学にはほぼ毎日通ふといふ今思ふと不思議な日々を過ごしてゐた訳だ。
話は前後するが、今は攝願(せつぐわん)といふ名の尼僧になってゐる雪の男子禁制の修行期間は疾うに終はってゐる筈だから、雪、否、攝願さんに私の死を必ず伝へてくれ給へ。これは私の君への遺言だ。お願ひする。多分、攝願さんは私の死を聞いて歓喜と哀切の入り混じった何とも言へない涙を流してくれる筈だから……
さうさう、それに君の愛犬「てつ」こと「哲学者」が死んださうだな。さぞや大往生だったのだらう。君は知ってゐるかもしれないが、私は「てつ」に一度会ってゐるのだ。君の母親が
――家(うち)にとんでもなく利口な犬がゐるから一度見に来て
と、私の今は亡き母親に何か事ある毎に言ってゐたのを私が聞いて私は「てつ」を見に君の家に或る日の夕刻訪ねたのだが、生憎、君はその日に限って不在で君の母親の案内で「てつ」に会ったのだよ。
「てつ」は凄かった……。夕日の茜色に染まった夕空の元、「てつ」の柴赤色の毛が黄金色(こがねいろ)に輝き、辺りは荘厳な雰囲気に覆われてゐた。その瞬間、私にとって「てつ」は「弥勒」になったのさ。私を見ても「てつ」こと「弥勒」は警戒しないので君の母親は私と「弥勒」の二人きりにしてくれた。それはそれは有難かった。暫く「弥勒」の美しさに見蕩れてゐると「弥勒」が突然、私に
――うぁぁお~んわぅわぅあぅ
と、何か私に一言話し掛けたのである。私にはそれが『諸行無常』と聞こえてしまったのだ。
今でもあの神々しい「弥勒」の荘厳な美しさが瞼の裏に焼き付いてゐる……。あの世で「弥勒」に会へるのが楽しみさ……。
さて、話を雪のことに戻さう。
或る初夏の夕刻、君と一緒にあの欅の前を歩いてゐると雪がBenchに座っていつものやうに何かの本を呼んでゐた。
(以降に続く)
先づ、次の文章が何のことなのか……謎謎である。
『宇宙を普遍的に支配する法則、宇宙の基本的なBalanceは、始終、破られてゐる。Energie(エネルギー)保存則を無視して、真空から、電子や陽子のやうな物質が――まるで手品の空っぽの帽子から鳩や兎が飛び出すやうに――ポンポンと出て来るのである。これを「真空の揺らぎ」と呼ぶのであった。但し、このやうな奇妙な現象は、観測者(主体)が観測してゐない時にしか起きない。一旦、無から生成された物質は、観測者(主体)が――周囲が――Unbalanceに気づく前に、無へと直ちに回帰してしまふ。結局、無から飛び出した電子や陽子たちは、観測者(主体)の眼には、「存在してゐなかった」ことになる。』――引用(『本 読書人の雑誌 2007年6月』【講談社】~<とき>の思考――大澤真幸著:「独裁者という名の民主主義」~(一部私が変更)
上記の記述には大澤真幸の理解不足が散見されるが概ね正しいとして、さて、何のことなのか解るだらうか。
先づ科学関係、それも物理学関係の事だとは解ると思ふが、しかし、科学者の間では上記の引用が「常識」なのである。
さう、量子力学のことである。量子力学における現象は一般の常識を越えた事がしばしば起こるが、上記の引用は彼のアインシュタインが生涯受け入れられなかった量子論の基本の基本の考え方である。アインシュタインでさへさうなのだから一般の人々にとっては尚更受け入れられない考え方である。
一言で言ふと私の背中では上記の引用の摩訶不思議としか言へない「現象(?)」が常に起こってゐることになる。
――はっはっはっ、可笑しくて仕様が無い……
さて、しかし、ここが大きな問題である。上記の引用が科学者の「常識」といふ事が――空恐ろしくて悪寒が体を走る――「文明」の基本の基本にある考え方なのだ。
――逃げろ ! !
さう、文明から即刻逃げなければ観測者にされた主体はこの世の「文明世界」で弄り殺され兼ねないのだ。
――奇妙奇天烈な『文明』から……早く、早く、逃げろ ! !
アインシュタインの一般相対性理論と量子論が「統一」された「大大統一理論」が理論物理学の世界で確立されない限り狂気の沙汰としか言へない「文明」から逃げる外、私たち一般の人々が「文明」に弄り殺されずに生き残る術は今の所……無い。
――誰か吾を助け給へ……
童歌の「かごめかごめ」
籠目籠目
籠の中の鳥はいついつ出やる
夜明けの晩に鶴と亀がすべった
後ろの正面誰
にやりと笑った途端、不意にこの世を去った彼の葬儀に参列した時、亡くなった彼の妹さんから彼が私に残したものだといふ一冊の大学Noteを渡されたのである。英語と科学を除いて勿論彼は終生縦書きを貫いたのでそのNoteの表紙にそのNoteが縦書きで使ふことを断言するやうに『主体、主体を弾劾すべし』と筆書きされてあったのである。
その手記は次の一文から始まってゐた。
『――吾、吾を断罪す。故に吾、吾を破壊する――
これは君への遺言だ。すまんが私は先に逝く。これが私の望む生だったのだ。私はこれで満足なのだ……
君もご存知の「雪」といふ女性が私の前に現はれた時に私は『自死』しなければならないと自覚してしまったのだ。
自分で言ふのも何だが……、私は皆に『美男子』と言はれてゐたので美男子だったのだらう。良くRock BandのU2の『WAR』のジャケットのCover写真の少年(俳優:ピーター・ロワン)に似てゐると言はれてゐたが、ご存知のやうに私は変人だったのでそれ程多くの女性にもてたとは言へないが、生命を生む性である女性の一部はどうしても私の存在が「母性」を擽(くすぐ)るのだらう、彼女らは私を抛って置けず無理矢理――この言ひ方は彼女らに失礼だがね――私の世話をし出したのは君もご存知の通りだ。
しかし、私に関わった全ての女性たちは私が変はらないと悟って私の元から離れて行った。雪を除いては……
私は雪と出会った頃には埴谷雄高がいふ人間の二つの自由――子を産まないことと自殺することの自由――の内、自殺の仕方ばかり考へてゐたが、私には人間の自由は無いとも自覚してゐたので自殺してはならないとは心の奥底では思ってゐたけれども、画家のヴァン・ゴッホの死に方には一種の憧れがあったのは事実だ。自殺を決行して死に損なひ確か三日ぐらゐ生きた筈だが、私もヴァン・ゴッホが死す迄の三日間の苦悩と苦痛を味はふことばかりその頃は夢想してゐたのだ。それに自殺は地獄行きだから死しても尚未来永劫『私』であり続けるなんて御免被るといったことも私が自殺しなかった理由の一つだ。
今は亡き母親がよく言ってゐたが、私は既に赤子の時から変はってゐたさうだ。或る一点を凝視し始めたならば乳を吸ふ事は勿論、排泄物で汚れたおむつを換へるのも頑として拒んださうだ。ふっ、私は生まれついて食欲よりも凝視欲とでも言ったら良いのか、見ることの欲望が食欲より――つまりそこには性欲も含んでゐるが――優ってゐたらしい。赤子の時より既にある種の偏執狂だったのだ。君が私を『黙狂者』と呼んだのは見事だったよ。今思ふとその通りだったのかもしれない。
そんな時だ、雪に出会ってしまったのは……
(以降に続く)
彼は幼い頃から屋根に寝そべって時々刻々とその姿を変容させる雲を見続けてゐる何とも名状し難い心地よさに包まれるその時間を愛して已まなかった。
特に雷雲が遠ざかる時の鬱勃と雷雲に雲が次々と湧いては上昇したために冷えた気団が纏ふ雲が雲団に崩れ沈む様をずうっと眺めてゐる時のその雄大な儚さが何とも堪らなく好きであった。
或る日、彼は特別強い突風が吹かない限り欠かせた事が無い激烈に変化する気候の不思議に魅了されて眺めずにはゐられない雷雲の去来の全てを部屋の窓を開け放って眺め始めたのであった。
先づ、斥候の雲として龍のやうな雲が中空を滑るやうに横切り始めると彼は最早空から目が離せなくなったのである。そして、灰色の氷山のやうな小さな暗雲が次第に群れを成して上空を流れ行く段になるともう直ぐ空が一変する瞬間が訪れるのを彼はわくわくしながら待つのである。
それは雷神が巨大な甕に薄墨をどくどくと注ぎ込みその巨大な甕が薄墨で一杯になったところでその甕の薄墨を空にぶち撒けるやうに薄墨色の暗い雲がさあっと空一面に一気に拡がる瞬間の息を飲むやうな迫力に圧倒されたいが為のみである。
辺りが夜の闇に包まれたかのやうに真っ暗になると雷神の本領発揮である。きらっと暗雲の何処に閃光が走ると
――どどどどど
と腹の底まで響き渡る轟音がこの世を覆ひ包む。
時には稲妻が地上から暗雲へ向けて這い登るその雷神の大交響樂は何時見ても凄まじいものであった。すると、彼は奇妙な感覚にその日は襲われたのである。
――睨まれた ! !
その瞬間であった。一閃の稲妻が地目掛けて駆け落ちた時、蒼白い小さな小さな閃光がこっちへ向かって疾走して来たのであった。その時Radioからワーグナーの「ワルキューレの騎行」が流れてゐた。
その蒼白い小さな小さな閃光はRadioのAntennaの先端に落ちたのであった。すると、「ワルキューレの騎行」は突然大音響で鳴り響き雷神の大交響樂を更にその迫力が鬼気迫る何とも凄まじいものへと変貌させたのであった。
それからである。稲妻が次々と閃光を放っては轟音を轟かせこの世を縦横無尽に駆け回り始めたのである。
――ぼとぼとぼと――
豪雨の襲来である。
その日の雷雨は記録的な降雨を記録した物凄いものであった……
印刷技術を始め様々な科学技術を応用した発明がなければ「知識」は未だに特権階級の独占状態にあった筈であるが、幸か不幸か「知識」は人類共有のものへと世俗化したのである。しかし、現代は人間を魔人「多頭体一耳目」へと変態させてしまったのである。
印刷技術の発達のお蔭で書物が誰でも手にすることが出来るものへ、画家や写真家のお蔭で或る絵画や写真の情景が見る人誰もが共有出来るものへ、Recordの発明のお蔭でで誰もが音楽を共有出来るものへ、そして、映画や団欒のTelevisionのお蔭で誰もが同じ映像を共有出来る時代になったが、さて、ここからが問題である。個室で独りTelevisionやVideo等を見る段階になると人間は魔人「多頭体一耳目」に変態するのである。
――奴とこ奴の記憶すら交換可能な時代の到来か……
つまり、現在「個人」と呼ぶものは既に頭蓋内すら他者と交換可能な、言ひ換えると仮に人類が個室で全員同じ画像を見てゐるとすると将来生まれて来るであらう人類の為には極端なことを言へばたった独り生き残っていれば、否、誰も生き残らなくとも映像さへ残れば良いのである。
――こいつとあいつは頭蓋内の記憶すら交換可能な、つまり、こいつが居ればあいつは無用といふあいつの悲哀……
さて、そろそろ魔人「多頭体一耳目」の正体が解ってきたと思ふが、つまり、魔人「多頭体一耳目」は個室で独りTelevisionやVideo等を見てゐる人間のことなのである。
――俺の存在とは誰かと交換可能な……つまり……俺がこの世に存在する意義は全く無い……
映画館や団欒等、他者と一緒に同じ映像を見てゐるならばは傍に「超越者」たる「他者」が厳然と存在するので魔人「多頭体一耳目」は出現しない。
魔人「多頭体一耳目」を戯画風に描くと一対の耳目を蝸牛の目のやうに一対の耳目をTelevisionやVideo等が映す映像の場所ににょきっと伸ばし、その映像を見てゐる人数分、一対の耳目から枝分かれした管状の器官で頭と肉体が繋がってゐる奇怪な生物が描き出されるのであるが、オタクには失礼かも知れないがオタクこそ魔人「多頭体一耳目」の典型なのである。
さうなると主体が生き延びるには「感性」しかないのであるが、「感性」といっても如何せん頭蓋内の記憶すら同じなので、哀しい哉、「感性」もまた「同じ」やうなものばかりしか育めないのである。
――主体とはこの時代幻想に過ぎないのか……
人間を魔人「多頭体一耳目」に変態させたくなければ同じ映像を見るにしても必ず他者と一緒に見なければそいつは既に魔人「多頭体一耳目」に変態してしまってゐる。
――さう云へば私は最早Televisionを見なくなって久しいが……本能的に魔人『多頭体一耳目』になることを察知してTelevisionを見なくなったのかもしれないな……
高田渡も歌ってゐる黒田三郎の詩『夕暮れ』の第一連から
夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
……は何とも私の胸奥に響く一節である。特に
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
……の一節は見事である。
ところが
――自分の場所とは一体何処だ?
といふ愚問を発する私の内部の声がその呟きを已めないのである。
今ゐる自分の場所は日本国内では、地球上では、太陽系内では、天の川銀河内では、更に何億年か何十憶年か、もしくは何百億年か後に天の川銀河と衝突すると予測されてゐるアンドロメダ銀河との関係性から全て自分の場所、もしくは自分の位置は言葉で指定できるが、さて、宇宙に仮に中心があるとして我々が棲息する天の川銀河は宇宙全体の何処に位置するのかとなると最早言葉では表現出来ずお手上げ状態である。
現代物理学ではこの宇宙は「閉ぢて」ゐると考へられてゐるのでこの宇宙の中心は多分何処かにある筈に違ひないと考へられなくもないが、しかし、宇宙全体の形状すら未だ不確かな状態ではこの宇宙に中心があるのかどうか不明である。仮令この宇宙に中心があったとして、さて、我々が棲息する天の川銀河はこの宇宙の何処に位置するのであらうか……
さて、『水鏡』で宇宙の涯についての妄想を書き連ねたが、仮にこの宇宙が『水鏡』の「林檎宇宙」であるならばこの宇宙の存在物は全て「林檎宇宙」の表皮に存在するといふやうに考へられなくもないのでこの宇宙の存在物全ては宇宙の周縁に存在する、つまりこの宇宙の存在物全ては宇宙の涯と接してゐるといふことになる。私の外部は宇宙外と接した何処かといふことになる。
――吾の隣は既に宇宙外……、はっはっ。
そこでまた『水鏡』の妄想から宇宙の涯が鏡――古代の人々は矢張り素晴らしい。鏡を神器と看做してゐたのだから――であるならば、私が鏡を見る行為は宇宙の涯を見てゐる擬似行為なのかもしれないのだ。鏡を見て自己認識する人間といふ生き物は、もしかすると宇宙の涯との相対的な関係性から自己の位置を認識したいのかもしれないのである。
――さて、吾は何処に存在するのか……
ここで石原吉郎の代表作の一つであり傑作の一つでもある『位置』といふ詩のその凄みが露になる。
――吾は吾の『位置』を言葉で表現し得るのか……
石原吉郎の第一詩集である『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社、1963年)の最初の詩は、『位置』である。
位 置
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である
(『石原吉郎全集Ⅰ』花神社、1979年、5ページ)
彼は絶えず――断罪せよ――といふ内部の告発の声に悩まされ続けてゐたらしい。
彼が何か行動を起こさうとすると必ず内部で呟く者がゐる。
――断罪せよ!!
彼は己の存在自体に懐疑的であった、といふよりも、自己の存在を自殺以外の方法でこの世から葬り去る事ばかり考へてゐたやうであった。
――両親の死を看取ったなら即座にこの世を去らう。それが私の唯一の贖罪の方法だ……
彼には主体なる者の存在がそもそも許せなかったらしい。彼をさうさせた原因はしかし判然としなかった。彼は埴谷雄高が名付けた奇妙な病気――黙狂――を患ってゐたのは間違ひない。
彼はいつも無言、つまり『黙狂者』であった。
――俺は……
といって彼は不意に黙り込んでしまふ。
しかし、彼は学生時代が終わらうとしてゐた或る日、忽然と猛烈に語り始め積極的に行動し始めたのであった。彼を忽然とさう変へた原因もまた判然としなかったのである。
彼は大学を卒業すると二十四時間休む間のないことで学生の間で有名だったある会社に自ら進んで就職したのである。
風の噂によると彼は猛然と二十四時間休むことなく働き続けたらしい。しかし、当然の結果、彼は心身ともに病に罹ってしまった