2007年08月03日のアーカイブ
『波紋』のところで横書きと縦書きについて少し触れたが、文字を手にした人類は何を措いても肉筆が森羅万象を表現するのには一番である。
先づ縦書きと横書きについてであるが、横書きは頭上に坐す一神教の神の信者以外の者にとっては使い捨ての文(ふみ)でしかない。『波紋』で「神の視点」といふものを述べたが横書きは一行書くごとに下方へ一段下る。文を認(したた)めるといふ作業もまた周回運動に変換出来、それが綺麗な螺旋運動になってゐることに気が付く筈である。
「神の視点」の神とは『時間の神』、日本で言へば滋賀県大津市にある「天智天皇」を祀る近江神社が「時の神」の神社として有名だが、ギリシア神話で言へば「クロノス」(英語;Chronos、ギリシア語;χρόνος)のことである。一神教、例へばユダヤ教ではヤハウェ、基督教では基督、回教ではアッラーフ(アッラー)に「時の神」は統べられてしまってゐるが……
以上のことから唯一神不在若しくは無信仰の人間の横書きが如何に虚しい作業かは言はずもがなである。
さて、本題の肉筆だが、仏教徒であらうが神道信者であらうが、更に言へば無信仰ならば尚更であるが、日本人ならば先づ縦書きが基本で、『浅川マキと高田渡と江戸アケミ』で述べたやうに文を記すことは現代理論物理学の実践である。ハイデガーのいふ「世界=内=存在」でありたいならば「道具存在」である筆でも万年筆でも鉛筆でも何でもよいが筆記用具を手にして紙に記す行為こそ「世界=内=存在」であり得る。そこでだ、現代理論物理学を実践するならば肉筆に限る。文字を記すときの一点一画を記す行為は「時間」を紙上に封印する行為である。それが肉筆であるならば「個時空」を紙上に封印することである。紙上に肉筆で封印された「個時空」は既にこの世に唯一の「顔」を持ってゐて唯一無二の存在物になるのである。
肉筆原稿が嘗ては活字、今はComputer入力の写植に変貌してしまったが、それでも肉筆で今でも原稿用紙と格闘してゐる作家の文は迫力が違ふのである。これは私だけのことかもしれないが文芸誌などで何某かの作家の作品の一文を読めばその作家が原稿用紙に肉筆で書いたかComputer入力かがたちどころに解ってしまふのである。私にとってComputer入力の作家の作品は其れだけで既に読むに値しない愚作である。今でも肉筆で原稿用紙に書いてゐる、例へば本人には申し訳ないが、私は嫌いである大江健三郎の作品を文芸誌で見つけると嫌いにも拘はらずその作品の一文を読んでしまふと最後まで読んでしまはないと気が済まなくなるのである。写植になっても肉筆で書いたといふ「個時空」若しくは作家の「言霊」が私の魂を鷲摑みにして作品を最後まで読ませてしまふのである。
――何故、現代人はComputer入力で文を認める、つまり己を『のっぺらぼう』にしたがるのかね……
――へっ、己のことを自然を「超えた」若しくは神を「超えた」存在だと錯覚したいだけのことさ、ふっ。
川面を弱風が吹き渡ると千変万化する風紋が川面に現はれる。
風紋といふ文字の姿も「ふうもん」といふ文字の響きも美しい。何がこんなにも私の魂と共鳴を起こして『美』を想起させるのか……
「揺らぎ」……。揺らぎを語り始めると量子論や宇宙論まで語らなければならないので自然の本質の一つとしてここでは一応定義しておくが、「揺らぎ」については後日語らなければならないのかもしれない……
風紋は風の揺らぎによって無常にその姿を変へ波の紋をこの世に映す。
諸行無常とは正に風紋の如しである。
さて、ここで妄想を膨らませると、風紋は時空間の時間を主体にした時空が姿を与へられてこの世に出現する現象ではないかと思ふ。波は周回運動に変換でき、つまり波は或る物が「揺らぐ」螺旋運動をしてこの世を駆け抜けたその軌跡ではないのではないだらうか。ここでいふ或る物とは正に『時』である。
確率論的に言へば風に幾ら「揺らぎ」があらうが風紋の最終形は直線の筈である。水はその姿を千変万化に変容させるので兎も角、砂丘の砂が例へば真っ平らであって例へ「揺らいだ」風でも万遍無く砂丘の砂にその風を数時間か吹き付け続ければ確率論的には直線の風紋が出来る筈であるが自然はそれを許さない。それは何故か――時空が特に時間が「揺らぐ」螺旋運動をしてゐるとしか考えられないからである。
多分、螺旋運動は自然の宿命なのだ。それ故時空は「揺らぐ」のだらう。
――人間もまた螺旋から逃れられない自然物なのだ。さて、例へばRobotだが、それが自然を超へるといふ人間の宿願を果たす人間の夢想であるならばだ。しかし、それが人間の頭蓋内の思索といふまた「揺らぎ」の螺旋運動から出現したものならば、さて、Robotもまた自然でしかない……………
――さてさて、人類の叡智とやらに告ぐ。……無から何か有を、存在物を……人間よ……創造し給へ。それが出来ない以上、人間よ、自然に隷属し給へ……。それが自然の宿命だからな……、ふっ。
何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシュニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連->ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送ってゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。
閑話休題。
音楽と言語は現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。
先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ないのである。
次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞って話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行ってゐるのかもしれない。
埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のっぺらぼう』と表現し、その『のっぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のっぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。
何も書かれてゐない原稿用紙の『のっぺらぼう』の状態は私がいふ『虚の波体』の状態でのことである。じっと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら『存在』してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ『陰体』である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその『陰体』はその姿を表象する。これがある言葉が出現する瞬間である。
さて、日本語は漢字の読みがいくつもあって、つまり量子力学的に『波が重なり合ってゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的状態が決したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に他ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。
閑話休題。
さて、本題に戻ろう。浅川マキ以外はもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。
浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があって彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといっても過言ではない。後はInternetで検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。
次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ」と言はれるに違ひない独特の味を持ったフォーク歌手である。何といっても山之口獏の詩を高田渡が歌った楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないままあの世へ行ってしまった。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかったが返す返す間も残念無念である。
最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽からさて、アフリカ音楽へ挑戦しようとしたところであの世へ行ってしまった。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になってゐるのだ。晩年、精神を病んでしまった彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。
浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。
螺旋から思ひ付くものの一つに二重螺旋構造のDNA(デオキシリボ核酸)がある。
そして螺旋は螺旋の真ん中を貫く一本の線を想起させる。螺旋の進行方向が螺旋の真ん中を貫く線の方向を決める。また、螺旋は龍巻を連想させる。螺旋状に渦を巻く気流が異常な破壊力の上昇気流を生み龍巻は地上の存在物を破壊する。DNAもまた自然物ならばこの摂理に従ってゐる筈である。DNAの真ん中を電流かその外の何かが流れてゐる筈である。それが何かは分子生物学者に任せてこちらは勝手な妄想を脹らませて主体といふものの仮象構造といったものを造形してみよう。
DNAの構造をフラクタルに拡大したものが人体だらうといふことは想像に難くない。さうすると主体たる人体は渦構造をしてゐるといふことも想像に難くない。一例として血管構造を見てみると動脈を構成してゐるといふ平行に走る弾性板の間を動脈長軸を巻くように斜走する平滑筋細胞が存在しいるらしいので血流がこのことと多少は関係してゐると看做せなくもないのである。
さて、人体を全体から見てみるとそれが渦構造であってもおかしくないと思へるのだ。口から肛門まで一本の管が人体を貫いてゐてそこは主体にとって『外部』である。
ここでカルマン渦の代表格である台風を持ち出してそれと人体の構造を比べると台風の目に相当するのが口から肛門まで貫く一本の管と看做せなくもないのである。そして肉体が台風の積乱雲群となる。
両手を拡げてその場で回転すれば肉体出来た『固時空』台風の出来上がりである。
さて、台風は台風に接してゐて渦を巻く高気圧によって動くが、人体は歩行する。多分、自転車、自動車、飛行機などは全て車輪かEngineの羽の回転運動で進んでゐることから『固時空』で円運動をしてゐるだらう時間を振り子運動に転換して人間は自律的に歩行してゐる筈である。『固時空』たる主体が歩行すれば主体に接して左右に時空のカルマン渦が発生する。つまり、『固時空』たる主体もまた渦構造をした存在に違ひないのだ。
舞踊に回転や渦巻き運動が多く、それが神聖なものと看做されたり死者との対話であったりするのもDNAの二重螺旋から発する『渦』と無関係ではなく、むしろ『固時空』たる主体が渦構造をしてゐると考へた方が自然で合理的だ。
――エドガー・アラン・ポーが『ユリイカ』の初めの方で書いてゐる『エトナの絶頂から眼をおもむろにあたりに投げる人は、おもにその場の拡がりと種々相とに心をうたれるのでありますが、これがくるりと踵でひと廻りしないかぎりは、その場景の荘厳な全一というパノラマは所有し得ないわけです。』(出典:創元推理文庫「ポオ 詩と詩論」 訳:福永武彦 他;二百八十四頁から)の実現だ。廻れ廻れ、全て廻れ !!
その犬は私が何か考へ事をしながら川辺をふらふらと歩いてゐた時に不意に葦原から眼前に現れ私の顔を見上げながら尾を振って私の愛撫を待ってゐる様子で私の前に座ったのがその犬との出会いであった。私はその犬が望み通り頭を撫でて一度その犬を抱きかかへ、「高い高い」をして「お前のお家にお帰り」と言って最早その犬のことなど忘れ再び考え事に耽り始め、暫く川辺を散策した後家路に赴いたのであった。
ある交差点で赤信号を待ってゐると不意に私の左脇にあの子犬が私の顔を見上げながら尾を振って座ってゐるのに気が付いたのである。
――お前は捨て犬か……
私はその時この子犬が我が家まで付いてきたなら飼ふと心に決め、その犬に対して敢へて知らん振りをしながら家路に着いたのであったが、案の定、その子犬は我が家まで私にくっ付いてきたのであった。
それが正式名「哲学者」、通常の呼び名は「てつ」との出会いであった。
「てつ」は兎に角倹しい犬であった。食べものといへば一番価格が安く市販されてゐた固形のDogーFoodと煮干少々、牛乳少々と週に一度鶏肉の唐揚げ一つといふのが「てつ」が生涯食べたものの全てである。それ以外のものを上げやうとしても「てつ」は首をぷいっと左に向け決して食べやうとしなかったのである。
「てつ」は柴犬か柴犬の雑種であったが定かではない。「てつ」は昼間は殆ど寝てゐたが夕刻になると茫洋と何処かの虚空を見上げては何十分もそのまま座り続け、散歩の時間までさうして過ごしてゐた。その姿を見て「てつ」を「哲学者」と名付けたのである。そして散歩から帰って食事を済ませると再び何処かの虚空を見て何やら考へ事に耽ってゐるとしか思へないやうに一点に座ったまま一時間ばかり動かなかったのであった。
それが「てつ」の日常の全てであった。
「てつ」の散歩も変はってゐた。「てつ」が我が家に来て一週間は「てつ」は私が行く方向に従って散歩の主導権は私が握ってゐたが、「てつ」は一週間で我が家周辺の地図が「てつ」の頭の中に出来上がって「てつ」はそれ以降、散歩のCourseを自分で決めて「てつ」が思ひ描いたCourseから外れやうものならその場に座って頑として動こうとしなかったのである。仕方なく私は「てつ」に散歩される形になってしまったが、「てつ」との散歩は何時も違ふCourseで全く飽きが来なかったのである。寧ろ「てつ」との散歩は楽しかったのであった。
雲水か修行僧のやうに食べ物に禁欲的であった「てつ」は性欲にも禁欲であった。発情は勿論してゐた筈だが、雌犬を見ても何の反応もせず、また、私の足にしがみ付いて交尾の擬似行為は一切しなかったのである。唯一「てつ」の性器が勃起したのは私とじゃれ付く時のみであった。
「てつ」は自分から私とじゃれ付くことは無く、私が無理矢理「てつ」にじゃれ付くと「てつ」の性器は勃起して「てつ」は私とじゃれ付くことに熱中するのであった。
「てつ」の遊びはそれか゛全てであった。
そんな日常が十七年続いたある日、既に白内障を患ってゐた「てつ」は突然体がふらつき出したのであった。それでも「てつ」は死の二日前まで散歩に出かけてゐたが、「てつ」の最後の散歩時は「てつ」の体は既に冷たくふらふらと何時もの散歩の半分にも満たなかったのである。
「てつ」の最期は眠るやうであった。既に冷たくなってゐた体を犬小屋の中に横たへ「てつ」は最期に生涯最初で最後の愛撫を私にせがんだのである。目で愛撫をせがんでゐるのが解った私は「てつ」を撫であげると物の数分も経たぬうちに「てつ」はあの世へ旅立って行ったのであった。それはそれは物静かで荘厳ですらあった。
さて、そこで亡骸となってしまった「てつ」の性器を見てみると其処に精液が凝固して出来てゐたのであらう、尿道の出口に白い可憐な小さな花を思はせる花にそっくりな精液の凝固物が咲いてゐたのであった。「てつ」は死ぬまで精液が尿道から滴り落ちてゐたのであった。つまり、生涯現役のままあの世へ旅立ったのである。その可憐な白い花を思はせる尿道に咲いた精液の凝固物が「てつ」の満ち足りた生涯を祝福してゐるやうでその白い花は荘厳な美しさを放ってゐた。
例へば宇宙の涯を妄想するには満潮時の流れが澱んだ川面に映る街明かりをぼんやりと眺めながら考へるに限る。それが新月だと尚更いい。
其処は両岸がConcreteの護岸で覆われて葦原の無い都会の街明かりが最も川面の水鏡に映える場所であった。その日は夜もどっぷりと暮れ真夜中近い弓張月が天高く上った頃に満潮を迎える、つまり宇宙の涯を妄想するのに最もよい日であった。いつものやうにConcreteの護岸の一番上に腰掛けて流れの澱んだ川面の水鏡に映る街明かりと月明かりをぼんやり眺めてゐると考えはいつものやうに宇宙の涯へと及んだのである。
――さて、この宇宙が『開いた宇宙』でしかも光速より速く、つまり埴谷雄高のいふ『暗黒速』で膨脹してゐるのであれば、多分、宇宙外にいはしまする神々の目には反物質の暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する越前海月のやうに我々が存在するこの宇宙は観えるに違ひない……
一台の自動車が堤防の上にある国道をLightを点けて左から右へと走り行く様が逆様に澱んだ流れの川面の水鏡に映ってゐた。
――しかし、現在の科学ではどうやら宇宙は『閉ぢた宇宙』らしいので暗黒の大海に浮かび急速に肥大化する『海月宇宙』は無いな……
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………………………………すると……さういへば確か北欧の神話だったと思ふが、この世は『世界樹』だか『宇宙樹』だかで表象されていたな……ここはニュートンに敬意を表してその『世界樹』を林檎の樹に喩へると……さて、我々が存在するこの宇宙はその『林檎の樹』に実ったたった一つの林檎の実でしかないに違ひない……
水鏡にうらうらと明滅する街明かりと月明かり。その明滅するRhythmが心地よい。
――すると反物質は林檎の芯の部分で果肉の部分は重力を深度で表す部分で我々が宇宙と言ってゐるのは林檎の表皮に過ぎないのかもしれないな……この考え方は銀河の分布を描いた宇宙地図で見る銀河の分布の仕方、真ん中がぽっかりと銀河の無い球上の周縁にのみ銀河が存在することとも一致してゐるやうな……無いやうな……まあ良い……今日のところは林檎の樹で行かう……
一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡に波紋がゆっくりと拡がって行く……
――さて、熟した『林檎の実』がぽとんと枝から落ちても『林檎の実の表皮』に過ぎない我々には……多分……宇宙外の『地面』に落下したことすら解らないだらうな……知るのは神のみぞか……さて、『地面』に落下した『林檎の実』は地面と接した部分から朽ち始める……巨大な巨大な巨大なブラックホールの出現だ……そして……その巨大な巨大な巨大なブラックホールも朽ち果てて『林檎の実』宇宙はべちゃっと潰れて反物質である『林檎の種』のみぞ残るのみか……さうして悠久の時を経て『林檎の種』は発芽する……ビックバンか……神の鉄槌の一撃が『林檎の種』に食らはせる……一つの『林檎の種』から『世界樹』は育ち幾つもの『林檎宇宙』実らせる……これを未来永劫繰り返す……か……
また一尾の魚が水面を跳ね上がり水鏡にゆっくりと波紋が拡がって行く……
――さて、今度は宇宙の膨脹が光速以下だとすると宇宙の涯は、さて、鏡のやうなものに違ひないだらう……この世に存在するあらゆるものは当然この宇宙外に飛び出ることはあり得ず光速で宇宙の涯まで到達してしまった光は宇宙の涯で反射する外無い……すると宇宙は光CableのやうなTube状でもよく……すると……この宇宙の形状は閉ぢたものであればどんな形でも構はないことになる……ふっ、宇宙の膨脹が光速以下とする方が今のところ合理的かな……つまり……この宇宙の涯は眼前の水鏡か……
うらうらとうらうらと澱んだ流れの川面に映る街明かりと月明かりが明滅する美しさは飽きが来ない……。
その日は潮が引き始めて川が再び流れ始めてもConcreteの護岸から腰を上げることなく明け方まで川面の水鏡をずっと眺め続けてゐたのであった。
人類が大きな勘違ひをしてゐることが一つある。それは仮令人類が地上から消えようがそれは所詮人類のみの問題であって、地球は勿論、宇宙にとっても人類が滅亡しようが生き残ろうがどうでも良い、即ち問題にすらならないある一つの事象に過ぎず、地球にとっても、まして宇宙にとっても人類の存在なんぞ歯牙にすらかけてゐない、全く下らない事象に過ぎないのだ。
唯、自然がこれ以上人類の存続を許さなかったならば自然は眦一つ動かすことなくその冷徹な手で自然に必要な数の人類を除いて残りは全て自然災害等で間引く、つまり人類の大量虐殺を何の躊躇ひもなく行ふといふことである。
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それは突然役所で決まって、ある朝、突然畑に舗装道路を通すための測量が始まった。後はAsphalt(土瀝青《つちれきせい》)で舗装すればその道路は完成といふところまでは何の問題もなかったやうに思ふが、さて、いざ土瀝青を敷いて道路を舗装し終へた翌日の朝、舗装された道路やその周辺では大量の蚯蚓(みみず)が死んでゐたのであった。土瀝青の上で力尽き野たれ死んでゐる何百匹の蚯蚓の外にも、まだ蓋のしてない側溝の中にも何百匹もの蚯蚓が力尽き死んでゐたのであった。その異様な光景は多分土瀝青を敷くときに使われた何かの薬品の所為に違ひないのである。地中といふ地球における「未来」に棲む蚯蚓は多分に生物の未来をも担ってゐる筈で、その蚯蚓の大量虐殺は生物の「未来」の抹殺をも意味してゐたに違ひない。
しかし、事はそれで終わらなかったのである。死んだ蚯蚓を喰らったのであらう、数羽の雀が道端で死んでおり、また、側溝の中には何匹もの螻蛄(おけら)と土竜(もぐら)が逃げ道を探して側溝の中で逃げ惑ってゐたのであった。螻蛄と土竜の姿を見るのはそのときが多分初めてであったと思ふが、螻蛄と土竜のその愛くるしさは今も忘れない。螻蛄と土竜を一匹一匹拾い上げて土に戻してあげたのは言ふまでもないが、螻蛄と土竜は蚯蚓の異変を喰らふ直前に察知したのであらう、多分螻蛄も土竜も死んだ蚯蚓を喰らふことなく生き残ったのだと思ふ。
さて、その日の夕方野良猫さへ危険を察知して喰はわずに死体を曝し続けてゐた雀は遠目に何も変わった様子は無かったのであったが、近づいて見ると黒蟻の山が雀の死骸の下に出来てゐたのであった。当然、何匹かの黒蟻は薬品にやられて死んでゐたが黒蟻はその死んだ仲間の黒蟻さへもせっせと自分の巣へ運んでゐたのである。
翌年、黒蟻の姿を余り見かけなかったのは言ふまでもない。
人間はかうも罪深き生き物である。この償いは近い将来必ず人間自らに降りかかって来るに違ひない……
あの身を刺すやうな垂直線が無数に林立する大都会の風景に慣れることは一生無いだらうと腹を括ったつもりでゐたが、いざ大都会の町並みを目の前にすると垂直線の恐怖で身が竦んでゐる自身に苦笑するしかない。
それにしても何故高い住居費を出してまであんな高層階にのかその棲む人の気が知れない。高層ビルはアインシュタインの特殊相対性理論から一種の過去へTime SlipするTime-Machineであることを知って皆あんな高層に棲んでゐるのだらうか。
主体の現在が皮膚の表面といふことと一緒で地球自体の現在は地肌が剥き出しになった地表である。その地表に高層ビルを建てればそれだけ地球の自転による回転速度が地表より増し、特殊相対性理論から高層ビルを流れる時間の流れは地表より極々僅かでしかないがゆっくりと進むのである。高層ビル群に棲んでその時間がゆっくりと進む感覚が感知できない現代人は感覚がとっくに麻痺して感覚器官が退化してゐるといふことで、既に人間では無いのかも知れないのである。これは由々しき問題で多分地表と高層との時間の進み方の違いを感覚的に感知した人間はその理由が解らず深い悲しみと苦悩の中に追い込まれ遂には自殺すると考へられなくもないのである。感覚が敏感な人間は都会に馴染めずあの身を刺す垂直線の地獄から逃れるために「過去」である高層ビルの屋上から「現在」である地面に一気に飛び込んで飛び降り自殺――自殺はまた地獄行きである。何故なら生きていくのが辛い現世の意識と感覚が未来永劫「私」であるといふ地獄に行くのである。そこは正に「嫌だ、嫌だ」といふ呻き声ばかりする阿鼻叫喚の世界である――をして死んでしまひ、時間の感覚に鈍感な「人間」の子孫ばかりが生き残るといふこと、つまり今は人間が退化して「何物」かへと変はる過渡期なのかもしれないが、それが「進化」といふならそんな「進化」は御免蒙るしかないのである。故に高層ビルに棲める都会人は最早退化した人間でしかなく、そんな得体の知れない「人間」とはなるべくなら関わりたくないといふのが本音である。
それとは逆に地下は地表より地球の回転速度が遅いので特殊相対性理論上、「未来」へのTime-Machineとも言へる。だから地下は目的なければ近寄らないほうがよいのである。目的無き未来にぽつんと置かれれば猜疑心や不安等に襲われ一分たりともそこには居たくない筈である。さうでなければ自身を退化した、人間ならざる何物かといふことを自覚して感覚を研ぎ澄ます訓練をしなければ「人間」は絶滅する。
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矢張り都会に来たのがいけなかったのだ。こんな「人間」ならざる魑魅魍魎が跋扈する不気味な世界からはさっさと退散するに限る。